シューマッハーと2nd ドライバー その1
2006年 10月 06日
1991年の1年目は別として、エースドライバーとして1992年から今年までの間、シューマッハーと組んだセカンド・ドライバーを思い出してみた。みんな個性的なドライバーだったが、中には消えていってしまった人もいるし、他のチームに移籍して結果を残した人もいる。
1992年ベネトン・フォードB192で、実質的にエースドライバーとして君臨し始めた時のチームメイトは、いぶし銀の走りのマーティン・ブランドルだった。B192の素性の良さもあり、ブランドルは9戦連続入賞したり、表彰台の実績を残した。当時、ベネトンはチャンピオンシップを争えるチームではなかった。それでもシューマッハーほどではないが、それなりの実績を残したことは評価しても良いと思う。しかし、この1年のシーズンで放出された。
1993年はウイリアムズから移籍してきたリカルド・パトレーゼだ。この年のB193は前年のB192と比較して乗りにくいクルマだったようだ。それでもパトレーゼはリタイアしたレースを除けば、ほぼ入賞しているし、表彰台にも上がっている。ただやはりシューマッハーと比較すると劣る成績なのは否めなかった。パトレーゼはこの年をもって引退した。彼は、旧富士スピードウェイと鈴鹿を走った、たった1人の貴重なドライバーでもあるのだ。
1994年はセナ・シュー対決で幕を開けた年でもあったが、セナが3戦目で事故死という大きな出来事があった。この年のチームメイトは、イェラルキ・ヤルビ・レート(J.J レート)だ。フィンランド人の速いドライバーだった。しかし、この年のベネトンのセカンド・ドライバーの待遇は露骨なほど差別され、レートは苦労していた。シーズン途中で怪我と成績不振のため、ヨス・フェルスタッペンにシートを取られてしまった。そんな悲惨なレートだったが、現在はアウディでル・マン24時間で優勝もしている。
1994年はレースでもテストでも怪我が多かったシーズンで、レギュラードライバーのJ.J.レートが怪我でレースに出場できなくなったため、この年の開幕戦でデビューしたのだ。表彰台にも上がったが、やはりシューマッハーとの差は明らかだった。J.J.レートが復帰し、シューマッハーが出場停止期間中も出場の機会を得られたが、大した成績は残せなかった。ベネトン自体、シューマッハーがいない間、精彩を欠いていて、ベネトンの好成績がいかにシューマッハー個人の力量によるものかが証明された。